長尾町の宅原(えいばら)というところに鹿の子温泉という小さな温泉があります。
緑の山と田園に囲まれた静かな温泉で、近ごろは都会の騒々しさをきらって大阪や神戸からくる人も多いようです。ところがこの温泉について次のような話が伝えられています。

 ある秋のことでした。この近くの山の中で母と子のシカが木の実などを拾って遊んでいました。突然、一頭の大きなクマが現れて子ジカに襲い掛かり、足をかみました。驚いたお母さんジカが子ジカをかばおうとしましたが、逆に胸をかまれ、深手を負いました。
 そのとき近くの山から猟師の撃った鉄砲の音が聞こえ、クマはあわてて逃げ出したのです。子ジカはなんとか大ケガをせずにすみましたが、傷の痛みと恐ろしさのあまり涙とふるえがとまりませんでした。するとお母さんジカは立ち上がって、やさしい声で「しっかりおし。お母さんがなおるようにしてあげるから」と言って、子ジカをくわえてヨロヨロと歩いていきました。胸の傷からは、どんどん赤い血がながれています。
あえぎあえぎ谷をおりて、きれいな清水のわいているところに来ると子ジカに「よいかえ、この清水で、何度も何度も傷口を洗うのですよ。きっとよくなりますからね。」
とだけ言って、その場で膝をつき、静かに息を引きとりました。子ジカは死んだお母さんにそばにいて、教えられたとおり足を清水につけていました。だが、悲しみはつのるばかりで、メーメーと、泣き続けました。
その様子を見た村人たちは、あわれに思い、その近くにお母さんジカの墓をつくってやりました。子ジカの悲しみはこれくらいではいやされるはずもありませんでしたが、村の人たちの温かい目に見守られながら、傷を治したのです。
子ジカの去ったあと、村人たちが清水を使ってみると、病気や体に、たいへん良いことがわかり、くんではおフロに入れるようになりました。この後ここを鹿の子谷と呼ぶようになり、現在の鹿の子温泉のはじまりです。

(兵庫県学校厚生会刊 「郷土の民話・神戸編」から)